昭和45年10月18日 特別奉修委員



 今日、善導寺の原さんがお知らせを頂いておられますように、もういわば合楽で十年、そして二十年と信心を続けておられる人達の場合、もういわば信心が玄人でなからなきゃならない。玄人にならなきゃいけない。と言う意味のことを頂いとられますが、果たして言うなら玄人の信心が出来ておるだろうかと。玄人という事は、例えばあの、アマとかプロと言う意味じゃない。
 例えばなら、先生の例えばなら上野先生が、先生の資格を持っとるからプロの、玄人の信心かというとそうでない場合もあろうですね。信者だからならアマという訳じゃない。やっぱり信者でも、プロ級の人がいくらもありましょうしね。だからどういう所でそういうけじめを付けて行くかと言うと、結局お願いをせんならんから、苦しいから信心が続いておると言うなら何十年経ったっちゃこれは素人の信心ですよね。
 私はそげん思うね。けれども、本当にこうして朝参りをさせて頂くのも、特別なこうして御用をさせて頂くのも、有り難いからそうさせて頂いておるというのが私は玄人の信心じゃなかろうかとこう思うんですね。有り難いからお参りさせてもらう、有り難いから御用させてもらいよると。おかげば頂かんなんから御用しよる。おかげば、苦しいからお参りしよるというのが何十年続いたってこりゃ素人の信心だと思う。
 久富さんが頂いておられますように、小便たごに鯉が泳いどると言う。だからこれは大便の中に泳ぎよるごたるおかげを頂かにゃんとじゃろうち言う。そうかもしれんけれども、大便の中に泳いどる鯉じゃお供えも出来んじゃないのっち言うた事でしたけども。結局小便たごそのものをね、変えなきゃいけないと言う事なんだ。いうならば、まぁ久富さんで言うならば、何時も難儀や苦しいことのあるような顔をしてござるですね。勇さんの大体表情が。ん。
 だからちょっとは本当朗らかに、にこやかにしたいわばがわたんを変えて行けっちう事ですよ言うなら。ね、例えば嘘にでもよいけんで、あの、やはり腹の底から笑えるような信心というような、そういう事に変えて行く事( ? )ないと、まぁ言うたんですけれどもね。お互いが、まぁ願わせて頂いておる事柄が、本当にその栗田さんが感じておられるように、小便的な小さい便という事、小さいおかげ。
 いわゆる目先のおかげ。目先のおかげに、したら願え願えと言われる、たんにしましてもです、折角願うならば私がいわゆる大便的な大きなおかげにならなきゃならんが、言うならその大便的な大きなおかげと言うのは、どうぞ私を億万長者にして下さいといったような事ではなくてね、どうしてもやはり神様の願いが本当に成就することのための、私は信心だと思うですよね。
 神様の願いが大坪総一郎の上に現れて(きのきった?)時に、例えば思いもかけないおかげが進展して来たようにね。私の願いであったら、私が博多に出て、博多で一人前の商売人になって大きなおかげを頂いたにしても、それは小さいおかげにだったに違いないですよね。けども神様の願いが、私の上に成就して来つつまぁある所に、これからまだどういう合楽がおかげ頂くやら分からん、とまぁ言うなら成長株的に見られるのも、そういうゆえんだとこう思うですね。
 どうぞ一つおかげを頂いて、もう皆さんの場合は、もう合楽ではいわゆるプロの上の、プロと言うようなおかげを頂かせてもらわなきゃならんですね。いわゆる玄人の中のまた玄人という位な信心の、まぁ言うならばグループだと私は思うんですけれど。本当に有り難いから、言わば、有り難いからお参りをさせて頂いておる、信心させて頂いておるということになるですね。それでいて、なら自分の周辺のことも様々な難儀と言うものは沢山あるのですから、それをお願いしちゃならんという事じゃない。
 お願いは勿論あるけれども、それは枝のものであってね、花ものであって、本当はそれによって信心がいよいよ培われて行くことが有り難い。有り難いから信心しようという、いわゆるもうプロの信心をさして頂かなきゃならん。ね、玄人としての信心が身に付いていかなきゃいけないと思うですね。今度御本部参拝で、あの、金光様のおひけを拝みにいった人は、ちっとあったじゃろうか。あれはもう私が中心が御祭りにゃ、みんなさぁいかにゃん、そんなふうで、皆が実際お参りしましたもんですけれどもね。
 夕べあの合楽、私とんだけじゃったちう話じゃったもん、聞いたんですよ。合楽の方達は3人でおひけを拝みにいったち。そりゃ有り難かったち言う事でしたけれど、もう玄人になったらそげなこつせんでよかっちうごたる間違いをすると、大変に間違うて来ますからね、信心ちゃ。やっぱ合楽には、そういう無礼が多いです。もうあげん時は素人ん時ち言うごたる風なですね。可笑しな、ま考え違いたり取り違いをしてはならないですね。
   どうぞ。